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2017-08-15

2017.08.12《每日新聞》大阪梅北(Umekita)梅田墓發現「大坂七墓」物證的200具人骨

大阪うめきた  梅田墓に「大坂七墓」物証の人骨200体
2017年8月12日 14時00分(最終更新 8月12日 15時26分)
Retrieved from https://mainichi.jp/articles/20170812/k00/00e/040/226000c

発掘調査で確認された梅田墓の一角。奥に見えるのはグランフロント大阪=大阪市北区で6月

 JR大阪駅北側の再開発区域「うめきた」(大阪市北区)に江戸~明治時代にかけてあった「梅田墓(ばか)」の発掘調査で、200体以上の埋葬人骨が見つかった。梅田墓は、江戸期に庶民の間で流行した盆行事「大坂七墓巡り」の1カ所に数えられ、近松門左衛門の「曽根崎心中」や井原西鶴の「好色二代男」にも登場するが、面影を伝えるものは残っておらず、実態はよくわかっていない。過去の工事で墓石などが出土した例はあるが、学術的な発掘調査で墓の一端が明らかになるのは初めてで、当時の大阪の都市の様相や葬送文化を知る上で貴重な発見だ。
JR大阪站北側的在開發區域「梅北(Umekita)」(大阪市北區)進行江戶至明治時代的「梅田墓」挖掘調查中,發現了曾埋葬200具以上的人骨。梅田墓是江戶期間在庶民之間流行的中元行事「大坂七墓巡禮」當中的一處,在近松門左衛門的《曾根崎心中》、井原西鶴的《好色二代男》作品當中也有提及到梅田墓,但一直被作為傳說而沒有實際上展開調查。過去的工程當中雖然有墓石等地出土,但這次為首次進行學術性的挖掘調查,是對於了解當時大阪都市的樣貌與殯葬文化在知識上的重大發現。

 うめきた2期区域の再開発事業に伴い、今年2~6月、大阪市教委の指導で大阪文化財研究所が明治期の地図から墓域と推定される約3000平方メートルの一画を含む、約700平方メートルを発掘調査した。
伴隨著「梅北(Umekita)」二期區域的再開發事業,今年2~6月經由大阪市教育委員會的指導,大阪文化研究所從明治時期的地圖推定墓園共約3000平方米,其中約700平方米位於在開發事業的區域內,而進行挖掘調查。

 調査では、きれいな盛り土の層に整然と並ぶ棺桶(かんおけ)に入った状態で土葬された人骨が見つかった。一方、火葬されて骨つぼごと穴に投げ込まれたような状態で見つかったものや、骨つぼに入れられず、同じ場所に何層にも重なって埋葬された痕跡も確認されるなど、多様な埋葬形態が明らかになった。棺桶に納められた人骨の周囲からは、とっくりのミニチュアや六文銭などの副葬品も見つかった。
調查結果發現,人骨是置入棺材後再整齊地覆土的土葬形式。另一方面,也有火葬的骨灰被裝進近似骨灰罈的穴中,也有沒有裝進骨灰罈而是在該處層層堆疊過的埋葬痕跡,確認有多樣的埋葬形式。在棺木內人骨的周圍,也能發現像是縮小版的「德利」(日本酒器)或六文錢等陪葬品。



 梅田墓は江戸初期、天満周辺に点在していた墓の一部を旧曽根崎村に集め(現在の大阪駅前第1ビル周辺と推定)、都市化に伴って1680年代に調査地付近に移転したと伝わり、1900年代初めごろまで機能していたとみられる。
梅田墓在江戶初期,將原先散佈在天滿周邊的一部分的墓聚集到舊曾根崎村(推測為現在的大阪站前第一大樓周邊),伴隨著1680年代的都市化而移轉到現址,一直到1900年代初期都還被作為墓園使用。

 調査地の北端と南端の計3カ所からは、墓域を区画した石垣も確認、北側の石垣は墓石を転用して築かれていた。墓地が造られる前の土層からは17世紀末ごろの磁器が出土した他、見つかった墓石には1674~1825年の没年が刻まれており、地誌や古地図で墓があったとされる時期と矛盾しなかった。また、南北の石垣の外側からも人骨が見つかり、墓域は従来の推定より広範囲にわたっていたことがわかった。
調查遺址的北端與南端共計三處發現了石垣,確認墓園是經過區域設計過,而北側的石垣是將原先的墓石轉用之後建構的。在建造墓園之前的土層也有17世紀末的瓷器出土,發現到的墓石上刻有的卒年為1674~1825年,與地誌或古地圖上記載的時期矛盾。另外,南北側的石垣外側也有人骨的出土,墓園的區域應比原先推測的範圍還要廣。

 調査した大阪文化財研究所の岡村勝行・東淀川調査事務所長は「江戸期の大阪では、火葬が大半だったとする史料が残されているが、土葬もかなりあったことが明らかになった。多様な埋葬形態は、時期の違いや貧富・身分の差によるものかもしれない」と話す。今後、見つかった人骨の男女比や年齢層、栄養状態などの分析を進める予定といい、謎多き墓の実態解明が期待される。【林由紀子】
進行調查的大阪文化研究所岡村勝行・東淀川調査事務所長說:「根據史料記載,江戶時期的大阪主要為火葬,而這次的發現確認了也有土葬的存在。多樣的埋葬方式或許是因時代的差異、貧富或身分上的差異而有所異同也說不定」今後將進行這些出土人骨的男女比、年齡層、營養狀態等地分析,期待能解開更多這個謎樣墓園的真相。


1935年発行の雑誌「上方」の表紙を飾った「七墓巡りの図」(長谷川貞信作)には、かねを打ち鳴らして練り歩く様子が描かれている


「歴史の一端解明」 古川武志・大阪市史料調査会調査員(日本近現代史)

七墓巡りには、肝試しの意味合いや、子どもの大人への通過儀礼的な一面もあったようだ。全て回ると自分の葬式は晴れるとも言われ、文学では心中の場面などで象徴的に描かれた。開発で失われる歴史の一端が発掘調査で解き明かされ、記録される意義は大きい。
「大坂七墓巡禮」是含有試膽大會的意義,象徵著小朋友們成為大人的成年儀式的一部分。據說只要能完整走完一趟,未來自己的葬禮就會是晴天,在文學的領域當中也常用來象徵內心的場景。因為都市開發而消失的歷史的一部分能藉由挖掘調查來解開謎題,在紀錄上有著很大的意義。

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